タンゴのスペイン語辞典 Diccionario Tanguero
e' / 'e (エ)
アルゼンチン−ウルグアイにかぎらず、スペイン語全域の口語で、“de” (デ) を省略した発音。○○の前につけて「○○のものである」というのが根本的な意味で、日本語にすれば「○○の(もっている)」「○○から(発した)」「○○という性質・材料の(○○でできた)」などと訳される、たいへん多く使われることば。
el (エル)
文法用語で定冠詞と呼ばれるもので、文法上《男性タイプ》に分類される名詞(無生物や抽象的な概念でも)の前に付けて、「その、あの、この」といった特定するニュアンスを与えたり、その名詞の存在感をはっきりさせることば。英語の “the” やフランス語の “le” とほぼ同じように使う。日本語に訳せないことも多いが、スペイン語の考えかたでは必要不可欠のことば。
辞書の見出し語や、種々のリストなどでは、このことばを除いたABC順に配列することも少なくない。この辞典では、場合に応じて、el が付いたのも付かないのも、両方とも見出し語にしてあります。
él と書いてあると代名詞で「彼、それ(男性タイプの名詞)」という意味です。
'el (エル)
上記の2語がつながったことば。本来は del。スペイン語全域の話しことばで使われる。
el Centenario (エル・センテナーリオ)
ふつうのスペイン語「百周年」に定冠詞が付いたものだが、アルゼンチンでは、(スペイン人の支配を脱して)初めてのクリオージョ(土地生え抜きの人)による政府ができた1810年から、百周年の「1910年」を指す。
タンゴの歴史でも、バンドネオンの加わったタンゴ楽団(人数は少なかったが)の形が定着し、リズムも洗練され、今日のタンゴの土台が確立した時点に当たるので、「あの百周年の時代」というように、ひとつの時期の代名詞として使われることば。
タンゴと関係ない本来の意義でも(話が逆になって、ごめんなさい)最初の政府ができてから百周年の1910年には、アルゼンチンは移民によって人口が増加し、さまざまな面で地盤が確立し、国際的に近代国家として認められた。それをアピールするために、ブエノスアイレス市で盛大な式典が開かれ、そこには各国の元首・政府代表・文化人なども列席した。
タンゴのピアニスト、ピアノ教師で吹奏楽団指揮者でもあった アルフレード・ベビラックァ Alfredo Bevilacqua (1874 - 1942) は、記念のタンゴ『独立 Independencia 』、隣国チリの(スペインからの)解放百周年(やはり1910年に当たった)を記念した『解放 Emancipación 』を作曲し、吹奏楽団を指揮して式典で演奏したと伝えられる。彼の作品『最初の議会 Primera Junta 』も、この機会に作曲されたタンゴだと思われる。
参照 ⇒ 25 de Mayo
El Estribo (エル・エスティリーボ)
⇒ estribo
El Tropezón (エル・トロペソーン)
⇒ Tropezón
El Velódromo (エル・ベロードロモ)
Emancipación (エマンシパシオーン)
ふつうのスペイン語で「解放」。同名のタンゴは、アルゼンチンの隣国チリの、スペイン統治からの解放(1810年)にちなんだ曲。
参照 ⇒ el Centenario
en la vía (エン ラビーア)
⇒ vía。
encurdar (エンクルダール)
酔わせる。参照 ⇒ curda。
encurdelar (エンクルデラール)
酔わせる。“me, nos, te, se” を前か後ろに伴って「自分を酔わせる」すなわち「酔っぱらう」。参照 ⇒ curdela
engrupido (エングルピード)
「だまされた(男)」というのが本来の意味だが、自分で自分をだましているということで、「見栄っ張りの、偉くないのに偉そうにしている、なんでも自分の力でやったと思っている、空威張りの(男)」という意味でのほうがよく使われる。
女性を表すときは engrupida (エングルピーダ) で、「お高くとまっている、虚栄心いっぱいの、自分が最高だと思っている(女)」といった意味。
engrupir (エングルピール)
嘘をつく、だます、(詐欺に)引っかける、うまい話に食いつかせる。(名詞 grupo を動詞にしたもの)。
Hoy tenés el mate lleno de infelices ilusiones, | きょう おまえのオツムは かなうはずのない甘い夢でいっぱいだ |
――タンゴ «Mano a mano»(マノ・ア・マノ=五分五分)1923年初録音 作詞:Celedonio Esteban Flores
*カルロス・ガルデール Carlos Gardel 歌。ここをクリック
Engrupen tus alhajas en la milonga | あんたのたくさんの宝石は ミロンガ (キャバレー) で 人をたぶらかす、 |
――タンゴ «Che, papusa, oí» (チェ・パプーサ・オイー)1927年 作詞:Enrique Cadícamo
*カルロス・ガルデール Carlos Gardel 歌。ここをクリック
ensaimada (エンサイマーダ)
スペインのマジョルカ島の伝統的なデザートだそうだが、スペイン語の国々の各地でも、それぞれに「名物」だと自慢されている。ウルグアイの首都モンテビデオも、独自の(?)味を誇っている。ドーナツと似たような生地(秘伝があるのでしょうが)にスパイス(アニスが多い)で風味をつけ、渦巻き型に成型し(真ん中に穴は開かない)、バターを薄く塗ってオーヴンで焼いたもの。ふつう砂糖(アイシング)をかけてある。モンテビデオでは、他の地域でのクロワッサンのように、朝食にする。参照 ⇒ factura。
Con un café con leche y una ensaimada | カフェオレ1杯とエンサイマーダ1個で |
――タンゴ «Garufa»(ガルーファ)1928年 作詞:Roberto Fontaina - Víctor Soliño
*アルベルト・ビーラ Alberto Vila 歌。ここをクリック
entrerriano (エンテレリアーノ)
アルゼンチンの中東部、Entre Ríos (エンテレリーオス) 州の人、ものを指すことば。ピアニスト、ロセンド・メンディサーバル Rosendo Mendizábal (1868 - 1913) 作曲のタンゴ « El entrerriano» (かのエンテレリーオス州の男) は、最高級の(つまり、とても値段が高い)タンゴダンスのサロン「ラウラの家 casa de Laura 」で、1897年に初演された。このサロンのお客のひとりである、同州出身の金持ち牧場主に献呈されたので、この題がある。献呈された人は、非常に高額の礼金を、その場で、現金で、作曲者に直接払わなければならなかった。音楽内容と題名は、まぁ無関係といっていいわけだ。
参照:⇒ Argañaraz, Catamarca。
曲は大傑作で、今日でも音楽家・ファンを魅了しています。
escabiar (エスカビアール)
(酒を、酔っぱらうほどに)飲む。下の語を参照。
同義語: chupar。
Che, madam, que parlas en francés | もしもし マダム、あなたはフランス語をしゃべり |
――タンゴ «Muñeca brava»(おそろしいお人形さん)1928年 作詞:Enrique Cadícamo 改編:¿Carlos Gardel?
*カルロス・ガルデール Carlos Gardel 歌。ここをクリック
escabio (エスカービオ)
酒、アルコール飲料。「酔っぱらった……」「酔っぱらい」という意味にも使う。イタリアの隠語 “scabbio” (ワイン) の転用。
espagueti (エスパゲーティ)
スパゲッティ。イタリア語 spaghetti をスペイン語読みで文字にするとこうなる。同義語:fideo, tallarín.
espiante (エスピアーンテ)
元来は、犯罪の専門用語で「簡単な盗み、かっぱらい、引ったくり」といった手口を意味したが、やや一般化して「逃亡」の意味で、わりあい広く使われた。語源はイタリア語で「引き抜く」あるいは「はぎ取る」という意味だった。参考 ⇒ piantar。
オスバルド・フレセード Osvaldo Fresedo (1897 - 1984) 作曲の1913年のタンゴ « El espiante» (エル・エスピアーンテ) は、日本では元の意味と関係なく、曲想から 『機関車』 という題名になっている。作曲当時は、タンゴにはルンファルドでタイトルを付けたほうが受けるといわれていたので、少年の作者に代わって先輩のミュージシャンがこんな題を付けてくれたとのこと。
estagiario (エスタヒアーリオ)
この単語はルンファルドではなく、ふつうのスペイン語でもない。このことばが、スペイン語に使われた例は、ただひとつしかない。定冠詞を付けて “El estagiario” とした、1917年発表のタンゴの題名だけである。
意味は「医師見習い」といったところ、医学を学ぶ上級の大学生で、病院で実習している人を指す。フランス語 stagiaire を、スペイン語に変えた造語で、1曲のタンゴの題名のほかでは使われなかった。
このタンゴの作曲者 マルティーン・ラサーラ・アルバレス Martín Lazara Álvarez は、ウルグアイ人の医師で、国から派遣されてパリの病院に勤務していたらしい。それで、フランス語をもじったスペイン語で、自分のことをからかって表現したのだろう。
なお、ブラジルのポルトガル語では、このことばは estagiário (イスタジアーリウ) として広く使われ、ことに見習い弁護士(法科に学びながら実地に弁護士活動をしている)を指している。
と、えらそうなことを書きましたが、わたしは40数年間このことばの意味がわからず、
ようやく最近知りました。わかったからどうということも、ないんですけれど。
estaño (エスターニョ)
ふつうのスペイン語で金属の「錫 (すず) 」のこと。ルンファルドでは「安酒場のカウンター」のこと。酒や水がこぼれてもいいように、安価で丈夫なブリキ(錫メッキした鋼板)を張ってあったからである。後には、カウンターがブリキ張りでなくても、安酒場そのものを指すことばになった。ブリキのカウンターなんか見たこともない、(より)若い世代でも、このことばを使っていた。
estribillista (エスティリビジースタ)
レコード録音のために、下記の “estribillo” をうたう歌手。とはいっても、実際には、曲のサワリであるこの部分は演奏で聴かせ、歌手の出番は歌詞の第1部だけということも多かった。また、歌詞こそが命であるような曲は、全曲をうたうことも、非常に稀だが、あった。
タンゴ楽団に歌手を加えることは、1925年、フランシスコ・カナーロ Francisco Canaro (1888 - 1964) の発案で、最初のそういう歌手は ロベルト・ディーアス Roberto Díaz (1900 - 61) だった。1940年代の初めまで、タンゴ楽団の1メンバーとしての歌手は、1曲の演奏の4分の1以下を担当することが多かった。
タンゴ楽団のレコード録音が本格化したのは1910年で、おもに、家庭でダンスをたのしむための商品だった。1917年から、ソロ歌手が(ギターの伴奏で)タンゴ歌曲を録音したが、タンゴ楽団には歌は入らなかった。タンゴ歌曲はとても人気があったけれど、歌詞のない曲もたくさんつくられていた。1925年ごろには、ほとんどの曲が、歌詞をつけるのにふさわしいスタイルで作曲されるようになっていた。そこでカナーロは、サワリの歌詞だけうたう歌手を、楽団のソロ・プレイヤーのように加えるアイディアを思いついたのだろう。聴く人たちからたいへん歓迎されたので、他の楽団、レコード会社も、すぐにこの新しい形を採り入れた。
専門のエスティリビジースタは、楽団とではなくレコード会社と契約していたようで、その会社で録音するさまざまの楽団に入って録音した。曲の一部しかうたわない歌手なんておかしいので、歌手の側からは、うれしくない呼び名だったろう。単に「歌手」といえばいいじゃないですか! 後年のタンゴ史研究家は、便利な分類なのでよく使うことばだが、実際にそういう人たちが存在した当時は、一部でしか使われなかった用語だと思う。
参照 ⇒ cantor; chansonier; vocalista.
estribillo (エスティリビージョ)
ちょっとした支えのようなもの、といった意味からきたのだろうか、古くからスペインの詩や歌詞(声楽曲も民謡も含む)で使われた専門用語で、1篇(1曲)の詩(歌詞)のなかで、最後の部分そして途中に数回出てくる、おなじことばの1句あるいは1節(せつ)を指す。日本語では「折り返し句」とするのが適訳とは思うけれど、タンゴの場合は、「句」と呼ぶにはあまりにも長いので、「折り返し節」?……わかりにくいですね。また、折り返すのが役目ではなくて、その部分で前の1節を支える働きをする。折り返すのではなく、積み重ねていく土台に、いつも同じことばの詩節が使われるわけで、タンゴの場合は2階建てである。
ほとんどすべてのタンゴ歌曲は、ふたつのメロディ部分からできている。それをA、Bとすると、ほとんどすべての場合、A−B−A−B とうたわれる。Aの部分は、2回めは異なった歌詞が付いている。Bは2回とも同じ歌詞。このBの部分が エスティリビージョ である。
estribo (エスティリーボ)
馬具の「鐙(あぶみ)」、鞍(くら)の両側に垂れていて、乗り手はそこに両足を乗せ、体重を支える。ふつうのスペイン語だが、牧畜や農業と関連して乗馬の文化が豊かなアルゼンチン=ウルグアイでは、他の国よりもよく使われることばである。建築などで材木の端を支えて固定する金具もこう呼ばれる。
このことばに定冠詞をつけたカフェ《El Estribo (エレスティリーボ)》は、1910年ごろから2〜3年間ほど、ブエノスアイレスのタンゴ音楽の重要な拠点だった。サンクリストーバル地区の、エンテレリーオス大通り Avenida Entre Ríos の、インデペンデーンシア大通り Avenida Independencia との角に近いところにあった。小さめのステージをもったカフェ・カンタンテ(歌や音楽をたのしめる酒場)で、女性のウェイトレスが働いていた。ダンスのスペースはまったくない。土・日を除く毎晩8時〜12時までがメインのショー・タイムだったようだ。
市の中心にとても近い場所にあったが、経営者はイタリア人(移民)の、いわゆる生業は持っていない男だった。高級店ではなく、酔っぱらった荒くれ者、ならず者のグループのケンカなどで、警察が介入することも少なくなかった。
1910年に、バンドネオン奏者《ガローテ》こと ビセンテ・グレーコ Vicente Greco “Garrote” (1888 - 1924) が中心となった――当時はグループのリーダー・指揮者といった格付けはなかった――グループの出演が大評判で、入りきれない人が歩道からはみ出して大騒ぎになったと伝えられている。グループのメンバーは、第2バンドネオン:ロレンソ・ラビシエー Juan Lorenzo Labissier (1887 - 1950) 、ピアノ:アグスティーン・バルディ Agustín Bardi (1884 - 1941)、フルート:ビセンテ・ペッチ “Tano Vicente” Pecci (1886 - 1945)、ヴァイオリン:フランシスコ・カナーロ Francisco “Pirincho” Canaro (1888 - 1964) と ホセ・アバッテ José Palito Abatte (¿? - 1964)。ほかに、このカフェに出演したタンゴの人気ミュージシャンは、バンドネオン:エドゥワールド・アローラス Eduardo Arolas (1892 - 1924) や ジェナーロ・エスポーシト “El Tano Genaro” Espósito (1891 - 1925)、ピアノ:ロベールト・フィルポ Roberto Firpo (1884 - 1969)、ヴァイオリン:ティト・ロッカタリアータ Tito Roccatagliata (1891 - 1925)。
このカフェの地下にもサロンがあり、そこではフォルクローレ(まだそういうジャンル名はなかったが)の ペーニャ が、週末をのぞいて開かれていた。ホセー・ベティノッティ José Betinotti (1878 - 1915) をはじめとする有名なパジャドール(自作の詩を即興で、ギターを弾きながら語りうたうアーティスト)たちが集っていた。ビセンテ・グレーコ 作曲のタンゴ “El Estribo” の第一部に、ベティノッティ 作詞作曲の広く知られた曲 “Pobre mi madre querida” (かわいそうなわたしのお母さん) のメロディが借用されている。
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