タンゴのスペイン語辞典 Diccionario Tanguero


基礎知識 タンゴのスペイン語


 スペイン語は 現在、世界の各地でたいへん多くの人が使っている言語ですので、どこのことばを基準と定めるというようなことは、もう、スペイン1国内でさえ不可能な状態です。「方言 el dialecto」という分類は、いまでは学者・研究家はあまり使いません。ぜんぶが「スペイン語 el español」です。
 タンゴは、アルゼンチン共和国 la República Argentina と ウルグアイ東方共和国 la República Oriental del Uruguay の両国の首都 ブエノスアイレス(「ブエノサイレス」と発音) Buenos Aires と モンテビデオ Montevideo の民衆が生んだダンス・音楽・歌です。
 現在のアルゼンチンとウルグアイ、そしてパラグアイ(行政の中心はここにあった)の3国は、スペイン王国に統治されていた時代、ひとつの大きな地方――スペインから見れば辺境です――を形づくっていて、この地方独特のスペイン語表現が自然に生まれました。
 この地方の日常生活はもちろん、感情表現・芸術・文化といったものもすべて、この独特のスペイン語の中で生きてきました。タンゴの歌はもちろんですが、ダンスも音楽もすべて、このスペイン語で語り、表現しているのです。
(パラグアイ国では、先住民の言語グワラニー語が、スペイン語以上に日常生活で使われていました)。
 タンゴのミュージシャンも歌手もダンサーも、作曲家も作詞家も、アーティストたちは、昔から今日に至るまで全員が、アルゼンチン=ウルグアイ独特のスペイン語を話して生きているのです。そして、もちろん、愛好家や聴衆も、このスペイン語の世界にいます。

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●タンゴのスペイン語

 スペイン語は、全体的にしっかり統一された言語で、「タンゴのスペイン語」といっても、ほとんどの単語や語句は 他の地域でも広く使われている、ふつうのスペイン語と変わりありません。
 でも、ほんの少し違う……その、ほんの少しの差が、とても大きな力となって、ことばの個性・独自の魅力を形づくっているのです。
 どこが違うか、その概略をご紹介しましょう。
(なお、これらは、その場の流れで――悪くいえば、口から出まかせに――ふつうのスペイン語表現と自由に混ぜて使われます)

a) 文法:「あなた」は vos
 スペイン語(にかぎらず、インド=ヨーロッパ語族の言語はみんなそうですが)では、なにかの動きをする、あるいはなにかの状態にある、その主体が、話す人との関係でどんな立場にあるかを確定しないと、話になりません。
 話す人自身――日本語の「わたし」――を、文法では第1人称と呼びます。スペイン語では yo です。
(日本語では「わたし」「あたし」「わたくし」「おれ」「ぼく」「わし」などいろいろな呼びかたがありますが、スペイン語では全地域で、yo しかありません。つまり人称は、抽象的な概念なのです。そこに話す人の個人的な性格・社会的地位などはまったく反映しません。ヘタに日本語に訳すとおかしいので、中立的な「わたし」と考えてください)
 話している相手――日本語の「あなた」――は、第2人称です(これも日本語訳はいろいろあるでしょうが、抽象的に、話されている相手を示す概念のことばです)。その他は、みんな第3人称としてしまいます。(なお、それぞれが単数か複数かも明白にしないといけません)
 第2人称(あなた)は、話している自分と距離感の近い人は、スペイン語全域で です。
 アルゼンチン=ウルグアイ=パラグアイのスペイン語では、vos です。これはスペインの古語での使いかたですが、どういうわけか、この地域に生き残って今日に至っているのです。

*第2人称の複数(あなたたち)は、ふつうのスペイン語と同じ ustedes です。

 スペイン語では(他のインド=ヨーロッパ語族の諸言語と同様に)、動詞――「〜の動作をする、〜の状態にある」という意味をあらわすことば――は、人称にしたがって語尾が変化します。いわゆる動詞の「活用」です。活用した形で 主体が何なのかわかるので、主体の単語(いわゆる主語)は省略されることが多いです。
 アルゼンチン=ウルグアイ=パラグアイのスペイン語では、主体が vos である動詞(あなたは〜する、あなたは〜の状態にある)は、ふつうのスペイン語とちがう語尾をもちます。少しだけ例を挙げましょう。太字が、アルゼンチン=ウルグアイ=パラグアイのスペイン語です。
(活用について、詳しくは、『タンゴのスペイン語文法』の記事をお読みください)
「あなたは歌います」(ふつうのスペイン語 Tú cantas.) Vos cantás.
「あなたは わたしを求めています」(Me quieres.) Me querés.
「あなたは出発します」(Partes.Partís.
「さぁ、行こうよ」(¡Anda, vamos!) ¡Vamos, andá!
「おいで!」(¡Ven!¡Vení!
(なお、第2人称複数(あなたたち)に対する活用は、スペイン語全域と同じです)

b) ヴォキャブラリー(語彙): lunfardo
 19世紀後半――タンゴのダンスが生まれた時代ですね――に、反社会的な人々・犯罪者を指して lunfardo という単語が生まれました。この言葉自体が、すでに隠語で(犯罪者及び警官だけが使っていた)、一般人には意味がわかりませんでした。一般には、ladrón (どろぼう) という単語が、犯罪者全体を指してふつうに使われていました。
 20世紀の初めには、ルンファルド ということばは、一般にも知られるようになり、意味が少しずれて「犯罪者たちの隠語・スラング」を指すようになりました。
 現在では、ルンファルドの意味は更に広がり、「ブエノスアイレス、モンテビデオをはじめとするアルゼンチン=ウルグアイの都市で使われる、他地方のスペイン語にはない俗語・スラング」そして「そういうヴォキャブラリーを交えたスペイン語」まで指しています。
 ルンファルドに含まれる単語の、主な語源は――
(1) 本来のルンファルド
 19世紀末から20世紀初めの、ほんものの(!)犯罪者用語。これらの中には、語源不明のもの、地方語から来たもの、イタリア語やフランス語(特に売春関係で)の借用、その他の造語などがあります。
 また、後になると、犯罪の影はほとんど残っていないか、まったくない意味に変わって使われています。たとえば、元来は「牢屋に入れる」という意味だった amurar は、「(おもに女性が男性を)置き去りにする」意味で使われます。
(この単語は、ルンファルドを使った歌詞で最初に有名になった曲『わが悲しみの夜 Mi noche triste 』 の いちばん最初の部分に出てくるので、一般の人も カルロス・ガルデール Carlos Gardel (? - 1935) のレコードで知り、真似して歌ったり、やがてはタンゴに反感を抱く人々――たぶん人口の半分以上――の耳にも親しいことばになりました。このように、タンゴの歌詞を通じて、一般の日常語になるほど知られるようになったルンファルドの単語は少なくありません)
(2) アルゼンチン=ウルグアイの地方語
 アルゼンチン=ウルグアイの地方のことばも、ルンファルドに採用されています。――実は、これでは話が逆ですね。ルンファルド入りのスペイン語は、この地方のスペイン語が土台になって、都会の発達とともに、地方生活のことばにはなかった 都会独特のヴォキャブラリーが加わったスペイン語です。
(3) イタリア語
 イタリア移民は、タンゴを生み育てた世界では非常に多かったので、ふつうのイタリア語、各地の地方イタリア語が、たくさんルンファルドに入ってきました。それらは、スペイン語流に発音して使われます。
 たとえば――これらはルンファルドの狭い範囲に入らない日常語でしょうが――、ciao!¡chau! (チャウ! 「さよなら」、時に「こんちわ」)、spaghettiespagueti (エスパゲーティと発音)となります。
(4) スペインの隠語・スラング
 スペインの裏社会の隠語、ヒターノ(スペインのジプシー)のことば、その他スペインの俗語からルンファルドに導入されたことばも少なくありません。
 たとえば、バカ・間抜けという意味で今日も多用される gil という単語は、ヒターノ語が起源です。
(5) その他の外国語
 フランス語、ブラジルのポルトガル語、その他ヨーロッパからの外来語も借用、転用されてきました。  またアメリカ大陸先住民のことば――インカ帝国のケチュア語、大草原の先住民の諸言語――も、多くは地方語を通じて、ルンファルドにも入りました。
(6) 新しい造語
 ふつうのスペイン語では言えない感情・ニュアンスを表現するために、新しく単語をつくる(時には即興で)こともあります。
 造語法には、いくつかのタイプがありますが、いちばんおなじみなのは、vesrre (発音はベズレ、またはベーッレ)とよばれる方法で(「裏返し」という意味)、単語の中の音を入れ替えることで、皮肉・ユーモア・親近感・軽べつなどのニュアンスが生まれます。ほんの少し例を挙げますと――
tango(タンゴ)⇒ gotán  amigo(友だち)⇒ gomía  músico(ミュージシャン)⇒ cosimu  cantor(歌手)⇒ torca   señor(紳士)⇒ ñorse  marido(夫)⇒ dorima  vento(お金)⇒ tovén  compañero(仲間)⇒ ñoricompa
c) 発音
 ふつうのスペイン語と同じです。
 y, ll の音は、いずれも、英語やフランス語の j の音で発音されます。日本語の「シャ・シ・シュ・シェ・ショ」の にごった音です。
 si は、日本語の「シ」と同じ発音です。
 za, ce, ci, zo, zu, -z は、sa, se, si, so, su, -s と まったく同じ発音です。
 南スペイン、アンダルシーア地方の発音は、各地の(スペインの首都マドリードにまで)スペイン語に大きな影響を与えていますが、アルゼンチン〜ウルグアイの都市でも、人により、またそのときの話の流れによって、そういう発音になります。
 その特徴は、-r, -s, -d- の音が、弱く、いいかげんに発音されるか、まったく消えてしまうところにあります。おしゃべりは即興(?)のものなので、同じ人が、あるときはちゃんと発音したり、発音しなかったりします。フラメンコの歌では、複数または第2人称をあらわす語尾 -s は絶対に発音しませんが、タンゴの世界では、そこまで極端ではありません。
 なお、プロの歌手は、歌詞の内容・ことばづかいのスタイルにより、また声楽上の技巧あるいは個人的な美学にしたがって、芸術としての魅力があるように発音しますので、必ずしも日常生活での発音と同じではありません。タンゴを歌うときの発音の規範は、いつの時代も、創始者カルロス・ガルデール にあるでしょう(すべての曲において、とまでは言えませんが)。
d) 口調・メロディ曲線
 いわゆるイントネーションは、ふつうのスペイン語と同じはずなのですが、イタリア語のおしゃべりの抑揚が、かなり強く感じられます。まったくイタリアの血が入っていない人たちまで、イタリア口調でスペイン語を話します。


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