タンゴのスペイン語辞典 Diccionario Tanguero


タンゴのスペイン語文法


 アルゼンチン=ウルグアイの文法の特徴は、2人称単数だけ、他の地域のスペイン語と違うことばが使われることです。
 2人称――ほんとうは「第2人称」としないといけないのですが、慣習に従っておきます――というのは、話している相手のことです。(1人称は話している自分のこと、その他の人やものは3人称と呼びます)
 日本語では「あなた、あんた、おまえ、きみ」などが2人称を指すことばです。(厳密には2人称単数ですね。2人称複数というのもあり、日本語の「あなたたち、あんたら、諸君」などに相当しますが、アルゼンチン=ウルグアイの口語では使わず、3人称複数に変えます。この記事では「2人称単数」を、単に「2人称」と呼ぶことにしました)

 2人称は、話している相手が、話している自分という存在のすぐそばにいると感じるときに使われます。だから、神様にも2人称で話すのです。(日本語には「人称」という考えかたはまったくありません。2人称を「くだけた」言いかただと決めつけるのは、まったくの間違いです。日本語に置き換えて考えたいなら、とりあえず「あなた」という意味に思っているのがいいです。くだけた気分とか、親しさを表すのは、話す内容とか、話しかたの表情です)
 さまざまな理由で、相手と距離があるとき、あるいは距離をおきたいとき、距離をおくべきときは、3人称を使います。気持ちの上での距離です。相手が目の前にいても、馴れ馴れしくしては社会的に失礼なとき、尊敬していて(あるいは尊敬するべきで)自分とは距離がある人だと思うとき、または単にふつうに物事を伝え合っているときは、3人称です。これも日本語では「あなた」に当たります。
 一般のスペイン語では、2人称の「あなた」を指すことばは、「トゥ 」です。タンゴの世界では「ボス vos」です。このことばは、実は由緒正しいスペイン語の古語ですが、他の地域では使われなくなって、アルゼンチン=ウルグアイにだけ根強く生きているのです。

 スペイン語では、動詞(日本語の「〜する」など、動作や行為をあらわす種類のことば)が 、「活用」と呼ばれることをします。
「〜する」「〜した」などで、単語の最後の部分の音が変わるのです。学習者は、この「活用」の形を覚える、あるいはそれに慣れるのに、うっかりすると数年もかかったり、それでも身につかなくて苦しんでいたりします。でも現地では、ほとんど赤ん坊でも、必要なことは活用してしゃべれます。その言語のシステムに入って感じているからですね。

 アルゼンチン=ウルグアイでは、2人称の活用形が、他の地域のスペイン語と異なります。以下に、異なるところだけ記します。ここに挙げてない形は、ふつうのスペイン語と同じです。
「〜する」というとき(現在形)
辞書に出ている形が “--ar” の動詞は、“--ás” にする。
  例:cantar → cantás “Cantás lindo”(あなたは、歌が上手ですね)
辞書に出ている形が “--er” の動詞は、“--és” にする。
  例:saber → sabés “No sabés nada”(あなたは、なにも知らないね)
   唯一の例外:ser → sos “¡Qué grande sos!”(あなたは、なんと偉大!)
辞書に出ている形が “--ir” の動詞は、“--ís” にする。
  例:sentir → sentís “¿Sentís el bandoneón?”(あなたは、バンドネオンの音が聞こえますか?)
   唯一の例外:ir → vas (これは標準スペイン語の活用と同じ)
「〜しろ、〜しなさい」というとき(命令形)
辞書に出ている形が “--ar” の動詞は、“--á” にする。
  例:cantar → cantá “Cantá un tanguito”(タンゴをひとつうたってください)
辞書に出ている形が “--er” の動詞は、“--é” にする。
  例:comer → comé “¡Comé todo!”(ぜんぶ食べなさい)
辞書に出ている形が “--ir” の動詞は、“--í” にする。
  例:dormir → dormí “Dormí tranquilo”(心配なく眠りなさい)
「〜した」というとき(完了過去形)
辞書に出ている形が “--ar” の動詞は、“--astes” にする。
  例:llegar → llegastes “¡Por fin llegastes!”(ようやく来たね!)
辞書に出ている形が “--er” および “--ir” の動詞は、“--istes にする。
  例:perder → perdistes; “Perdistes el tren”(あなたは電車を逃がしたよ=乗り遅れたよ)
――これらの形は、現在ではほとんど使われず、ふつうのスペイン語文法にしたがいます。ふつうより "s" の音がひとつ多いだけですが、長くなるのが嫌われたのと、語尾の "s" は発音しない人も多いので、かなり前から古風なことばづかいになってしまいました。
「〜するということを」といった、日本語では必要としない形(接続法現在形)。「〜してはいけない」というときにも使う(否定の命令)。
辞書に出ている形が “--ar” の動詞は、“--és” にする。
  例:cantar → cantés “Avisame cuando cantés en la televisión”(テレビでうたうようなことがあったら教えてね)
    mirar → mirés “¡No me mirés la cara!”(わたしの顔を見ないで)
辞書に出ている形が “--er” の動詞は、“--ás” にする。この形は、標準スペイン語にする人・場合も少なくない。非常によく使われる動詞は標準スペイン語では不規則な活用をするものが多いが、それらはほとんどの場合、標準スペイン語の活用にする(そうしない人もいる)。
  例:meter → metás “¡No te metás!”(入ってはいけない、あなたは口を出さないで、引っ込んでろ)
   tener → tengas/tengás  “No tengas miedo” または “No tengás miedo” (こわがらないで)
辞書に出ている形が “--ir” の動詞は、“--ás” にするはずだが……この形は使われない。標準スペイン語と同じにする。
発音と正書法
 人と場合によって、シラブルの最後(単語の途中や語尾)にあって、次に母音が来ないときの s の音は発音されません。これは、スペインのアンダルシーア地方の発音が、各地に浸透した結果です。
 また、流麗で甘美なひびきを重視するイタリアのベル・カント歌唱法では、s の音のきしる感じを嫌って、省略できるところ(意味が誤解されない範囲内で)は発音しません。タンゴの歌も、この歌唱法の影響を受けています。
 ルンファルドを使う詩、あるいは小説、脚本などで、発音されるとおりに表記したい作者は、(標準文法では必要な) s の文字を書きません。
 また、そのような発音重視の書きかたでは、標準語の vll を、それぞれ b 、 y と表記します。


 この特徴ある文法は、アルゼンチン=ウルグアイだけでなく、交流のあるパラグアイ、ボリビア、チリの人々の一部にも使われています。また標準スペイン語の文法とまぜて、適当に使われます。どちらでもいいみたいです。会話ではもちろんですが、1曲の歌詞の中でふたつの文法が混用されている例が、稀にあります。この場合は、詩作上の規則――1句の最後の音を合わせて韻を踏む、また音の数の制約――を守るためと考えられます。さらに、歌手がメロディの抑揚にあわせて、あるいは自分のやりたいフレージング(うたいまわし)のために、作詞者(あるいは楽譜出版者)が統一しておいた文法を変えてしまうことがあります。これは歌手のやり方のほうが、自然で、いい言葉遣いをしていると言えます。この辞典の引用歌詞は、うたわれている通りに書きましたので、文法が乱れているときがあります。乱れているほうが「正しい」んです。
 また、いっぽうでは、とくにテレビのネットワークの影響で、国際的なスペイン語の標準化が進むにつれて、アルゼンチン=ウルグアイでも、特徴ある文法の存在は薄れてきています。
 とはいえ、スペインおよび各国(アルゼンチン、ウルグアイはもちろん、USA,フィリピンも含む)のスペイン語言語アカデミーがつくった最新の、たいへん詳細な文法解説書 “Nueva Gramática de la lengua española - Manual” (2010, Real Academia Española - Asociación de Academias de la Lengua Española) では、はっきりと、この文法をスペイン語の一部と認めて解説しています。かなり簡単な解説ですが……。また動詞活用の表では、接続法が載っていません(解説のほうでは、否定の命令に使うことなど述べられています)。


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