タンゴのスペイン語辞典 Diccionario Tanguero よみもの
Los tanguistas
タンギスタたち
あちこちのバーで音楽をやっている者たちは《タンギスタス tanguistas 》と分類されていた。彼らは名前を知られるようになりたいという気持ちはなく、まったく職業意識はもたずに、生きていくための簡単な手段をタンゴに見つけたというわけだ。
1905年以後になっても、彼らの楽団は原始的なものからほとんど変わっていなかった。
メンバーは、フルート、マンドリン、ギターもしくはハープ、ヴァイオリン、そしてしばしばハーモニカで編成されていた。
また、知っておいていただきたいことは、こういう先駆的な楽団は、契約されてバーで働いていたのではないということだ。それは今日まで続いていることだけれど、ずっと後年になってからはじまったのである。
彼らは店から店へ渡り歩く行商人で、そのうちにメンバーが増え、ほとんど毎日のように、だれかが出て行き、だれかが加わっていた。
これを読んでいるみなさんは、彼らがいつもオーケストラのステージに乗っていたと想像してはいけない。にわか作りの台さえもなかった。とにかく立つ場所があれば、そこに身を置いた。気前のいいテーブルを取り囲むとか、あるいは、ただただ行き所がなく、どこかの壁の面にはりついて立っているとか、場所があれば、どれかの隅に集まっていた。
さらに、それらは例外なくクリオージョ(土地っ子)たちによる楽団だったと思い込まないほうがいい。
ラボーカ la Boca 地区を通っていた《タンギスタ》たちは大部分が南イタリア人だった。今日の《タンゲーロ》(タンゴ愛好者)たちは驚き、不快に感じるだろうから、わたしはこういうことを暴露するのが後ろめたいのだが、ギターとハーモニカのかわりに、クラリネットが入っていた。
しかし、こういう音楽家たちが演奏していたのは、ラボーカだけだった。ほかの場末の地区では、クリオージョの小さな楽団が主導権をとっていた。
そして、いつでも、ポルテーニョ(ブエノスアイレスっ子)のコンパディリート(ならず者志向の若者)たちがメンバーで、彼らは、店の女主人から給料を受け取ることよりも、店で働いている女の子の仲介者(ヒモ)になろうという熱望をいだいていた。彼らが、首都と地方の「カフェ」なるもの――アルコール飲料とダンス付きの集団娼館――で、タンゴが俗悪であるという定評をつくったのである。
ラボーカには、セレナテーロたちもたくさんいた。彼らは(音楽の)初心者たちで、当時は大衆的な音楽家になるには、必ずセレナータをやるのが第一歩だったので、こう呼ばれたわけだ。
見習い音楽家たちは、経済のことは考えずに、魂を捧げて、どんなところでも、カフェでさえも、休むことなく無料で演奏しつづけた。いずれにしても、彼らのだれかが、2,3曲ごとに「お皿」をまわして、客からチップを集めていたけれど。
ホセー・セバスティアーン・タロン José Sebastián Tallon 『禁じられた音楽だった時期のタンゴ』
“EL TANGO en sus etapas de música prohibida” (1959, Instituto Amigos del Libro Argentino) より。
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